スポーツと指導、育児と躾
連日スポーツ界のパワハラ問題が世間をにぎわせている。
今度の舞台は、女子体操だ。
現役のオリンピック選手候補に対する、専任コーチからの暴力がそもそもの発端である。けれども話は二転三転し、日本体操協会のトップから女子体操選手へのパワハラが注目を浴びている。
「暴力」に関して言えば、女子体操選手から
「暴力は確かにあったが、指導でありパワハラとは認識していない」
という異例の声明文までも発表され、実際に会見もされており、事態は混迷を極めている。
各テレビ局、各時間帯のワイドショー番組もこぞってこの話題を取り上げており、コメンテータや有識者がそれぞれの見解を盛んに交し合っている。
この一連の騒動はまだまだ続きそうだが、私は少し気になっていることがある。
それは、コーチによる選手への暴力についてである。
- 選手が、オリンピック候補という、非常に有望な選手であること
- 選手とコーチの間には深くて強い絆がすでにあり、選手・コーチともども暴力自体は認めているものの、パワハラとは認識していないこと
- 選手の家族もまた、指導の範疇であり暴力に当たらないと認識していること
- 暴力が怪我には繋がってはいないこと
- 暴力は、怪我や命の危険があったときのみ、やむを得ず行っていたこと
などから、この場合の暴力は「必要悪」として、あまり重要視すべきでないかのようなコメントがちらほらと見受けられることだ。
もちろん、暴力自体を容認は誰もしていない。けれども、命にかかわる体操という特殊な競技の中で、選手とコーチとの絆を最優先するがために、そこにかつてあった暴力を軽く見ているような意見の数々に、私は違和感を抱かずにはいられなかった。
もっとも、選手家族にも暴力という認識が全くなく、選手の周囲の人間(現場に居合わせた人間)もまた見て見ぬ振りしていたのだから、「暴力」はスポーツの世界ではまだまだタブーな行為ではないのかもしれない。
コーチは暴力を認め、そのうえで深く反省している。であるのだから、その責をこれ以上コーチに求めることは必要ないのかもしれない。
とはいえ、暴力はスポーツの指導においてあってはならない行為だ。
「暴力」は、何があっても強く否定されるべきである。
もしかしたら、日本体操協会幹部のパワハラのインパクトが強すぎるがために、そのような印象を私が一方的に受けただけかもしれないけれども。
「叱らない育児」と「脅し」
このニュースに関して、「暴力」ばかりがクローズアップされているが、暴言についてはあまり触れられていない。
件の選手とコーチの過去の取材映像の中に、「やる気がないなら、帰れ!!」的な言葉が飛び交うシーンがある。
よくある光景だ。
スポーツ強豪校の指導者が、やる気のない??選手に対して
「やる気がないなら、帰れ!!」
「やる気がないなら、出て行け!!」
といった類の、厳しい言葉をかけることはよくあることなのだろう。
とは言え、冷静に見れば、これはただの脅しである。
けれども、「脅し」では人を正しく導くことはできない。
話は少し変わるが、最近「叱らない育児」に関してとても勉強になるサイト(元男性保育士の目線で書かれた、現代保育・育児の問題点などが考察されている)を発掘し、時間を作っては勉強をしている。
とてもボリュームのあるサイトなのだけれど、その中で「叱ること、脅すことの無意味さ」が詳しく説明されており、とても勉強になった。
私自身はまだまだ「叱ること」「脅すこと」で子供たちをコントロールしてしまいがちだ。親や上司から日常的に「脅されること」でコントロールを受けても来たこともあり、正しいロールモデルさえ、いまだ見つけることができていない。
だから、人のことをとやかく言える立場ではない。ないのだけれども、問題意識は持っており、叱ったり、脅しつけてしまった後は、きちんとフォローを入れるようにはしている。
おそらく、件のコーチと選手に関しても、そのようなフォローがしっかりとあったからこそ、二人の間に深く強い絆が出来上がっていったのだろう。
とは言え、「脅し」は間違っている。
間違っているけれども、スポーツの世界では、まだまだこれらの「脅し」が指導の一環として「必要悪」として、積極的に容認されているように、私には思えてならない。
そこに私は強い矛盾を感じてしまう。
育児においては、躾と称する「暴力」も「脅し」も容認されない。
けれども一方で、スポーツにおいては、指導と称する「暴力」も「脅し」も時には「必要悪」として積極的に容認される。
この違いは、一体何なのだろうか??