日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。結論の出ない、個人的で偏った見解の考察が主です。

妻・母親にとっての「自分の問題と、他人の問題を分ける」を考える。

「自分の問題と、他人の問題を分ける」とのアドバイスをよく見聞きする。

先日も先輩ママとの会話の中で、

「そこまで手助けしちゃだめだよ、きっちり本人に責任を取らせるなり、痛い目に合わせなきゃ」とのアドバイスを受けた。

一方で、子供の失敗に対し「もっとこうすれば防げたはずだ」との視点からのアドバイスもよく受ける。

 

件の先輩ママは、上のお兄ちゃんが小学6年生と高学年なこともあり、

「母親として、最低限のサポートなり声掛けや助言はするけれども、最終的にそれをしなかったのなら、それは本人の問題であり責任だ」

と、あっさりしたものだった。

 

一方の私は、自分の至らなさに日々自己嫌悪に陥りつつも、本人に自覚を持ってもらいたいとの思いもなかなか捨てきれない。

結局、「最低限のサポートなり声掛けや助言」の線引きができず、「過剰なサポートとしつこいくらいの声掛け」と「何も言わない、もしくは一回しか声掛けせずに静観」の極端でかつ矛盾した対応を繰り返している。

 

人は「痛い目」を見たからと言って、自分の行動を悔い改めるわけでは決してない。

すくなくとも、私はそうだった。

子供時代から、そうして大人になった今でも、

  • だらしがない
  • 忘れ物が多い
  • 遅刻が多い
  • 自分が作った約束やルールを守れない

等の「困りごと」を克服できていないのだ。

何度も「痛い目」にあっているにもかかわらず。

 

 

繰り返すが、人は「痛い目」にあっても、その痛みを糧に自分の行動を悔い改めるわけではない。

精神論だけでは人は変わらない。

「行動と考え方」を変え、「ツール」を揃えなければ、人は変わらない。

いや、根性論だけでも変われる、人もいる。だからこそ、厄介だ。

 

 

さて、主婦業・母親業をしていると、どこからが「家事・育児」でどこまでが「お世話」なのだろうかと立ち止まる瞬間がある。

「家事・育児」そうして「お世話」は正確な線引きはできず、グラデーションを帯びた延長線上にある。

二人の娘には、「自分のことは自分でできる」「他人に迷惑をかけない」自立した大人になってほしいと願っている。

故に、成長の過程で「家事」を「他人事」ではなく「自分事」として取り組んでほしいしいと考えている。

 

その一方で、妻として、母親として。家事・育児を主に担っている身として。

4歳の次女のお世話は当然ではあるが。

小学2年生の長女のお世話はどこまですべきなのか??

長女に合わせ夫のお世話はどこまですべきなのか??

いつも考えてしまう。

 

私の母は、基本、家事の延長にある身の回りのお世話と最低限のサポート以外は「自己責任」の人だった。

子供たちがどんなに忘れ物が多くとも、遅刻が多くとも。学校から注意されようとも「本人の問題だから」と一緒になって困ってはくれなかった。

小学生時代は、時に学校から自宅に電話をすれば忘れ物を届けるなどはしてくれた。

行き渋っていた高校時代は、毎日朝学校まで送ってくれた。

だが、一緒になって「困って」はいなかった。一緒になって「困りごとの解決方法」を考えはしなかった。積極的に提案もしなかった。

例え提案しても、その解決方法を身に着けさせる努力はしなかった。

 

結果、私は数々の失敗をし、周囲からの評価を下げ、信用を失った。

それでも、どうにかなってしまった。進学も、就職もできた。数少ないが友人もいる。

 恋愛もし、結婚もできた。

故に、幸か不幸か、自分の「困りごと」からのらりくらりを逃げ続けられた。

 

 

 自分自身が、今だ「困りごと」を解消できていないからこそ、子供たちにはその「困りごと」で苦労してほしくないと心から願っている。

けれども、厄介なのに、自分自身が「困りごと」を解消できていないからこそ、子供たちにその「困りごと」を解決するための手段や考え方、道具を提示できない矛盾が生じる。

 

結局は自分自身の「困りごと」を解消するのが一番の近道なのだ。

「自分に合わない」「魅力的に映らない」との言い訳を捨て、もっと謙虚にそうして真摯に自身の「困りごと」に向き合うしかないのだ。