日々、思うこと、考えること。

子育て中に、考えてしまうあれこれ。結論の出ない、個人的で偏った見解の考察が主です。

「子供がご飯を食べない。好き嫌いが激しい」が悩みではない。

「子供がご飯を食べない。好き嫌いが激しい」との悩みは、リアルの世界でもネットの世界でもよく見聞きする悩みだ。

先日も、職場で親しくなった同僚(3歳の男の子のママ)が、

「息子が白いご飯を食べない」

と笑いを交えてではあるが愚痴をこぼしていた。

ふりかけごはんや、炊き込みごはん、チャーハン等にすれば食べるのだと言う。とは言え、毎回白米に手を加えるのは手間だし、ふりかけを常備するのもちょっとした手間だ。外出先では対処できないし、うっかり買い忘れると面倒くさくて困っているとの話だった。

 

 

この、「子供がご飯を食べない。好き嫌いが激しい」との悩みには、別の悩みが隠れている。

それは、子供の健康に関する悩みであり、料理を作り準備する親の心情や都合に関する悩みだ。

「だから、子供の体重が増えない」

「だから、子供の身長が伸びない」

のであり、

「だから、何を作っていいのかわからない」

「だから、何を買ったり、準備していいのかわからない」

のだ。

そこには「実質的な子供の栄養面のフォロー(代わりに作ったり、買ったりするという意味で)をしてくれる第三者がいない」問題がある。

故に、子供の食に関して、悩むのは主に母親だ。

現実問題、どんなに子供が食べなかったり、好き嫌いが激しかったりしても、順調に体重が増え、身長も伸び、体も健康で、病気にもあまりかからず、かつ自分以外の人間が料理を作る役割を主に担っているのであれば、人にもよるだろうけれども、そこまで悩まないだろうし、パートナーが悩んでいても、躊躇なく楽観視できるのではないだろうか??

 

 

かつての私も、長女の食の細さ、こだわりの強さに辟易していた。

もっとも今も、その悩みがすっきりと解消されたわけではない。

ないが、時と場合にもよるが割り切れるようにはなった。

その理由は大きく二つある。成長ホルモン注射の開始と、次女の存在だ。

 

特別、成長ホルモンの注射が決まり、医学的に「長女の背が小さいのは、私の責任ではなく、生まれ持った性質(成長ホルモンの分泌量が平均以下であるため)である」と証明されたのは大きかった。それまでの私は、長女の食が細いのを、身長が低いのを、「私の作る料理がまずいからだ」「私の作る料理の栄養が偏っているからだ」と考えがちだった。

それが、医者から面と向かって「お母さんのせいではありません。生まれ持ったこの子の体質です」と告げられたとたん、すっと肩の荷が下りたのを今でもよく覚えている。

 

おまけに、次女は非常に食に積極的だ。

野菜も好き嫌いなく何でも食べる。生のレタスも何もつけずにモリモリ食べるぐらいだ。

おかげで、幼稚園が開始されて2週目から始まったお弁当(もっとも、その一週間後から給食が始まったのだけれども)のメニューには、何の悩みもなく思い立ったおかずを何のためらいもなく入れ隙間を埋められた。

 

 

そうは言っても、長女の食のむらっけや好き嫌いの激しさは相も変わらずだ。徐々にではあるが食べれるものは確実に増えている。増えているが、まだまだNG食材や調理だらけだ。故に、

「何を作っていいかわからない」

「何を買ったり、準備したりしていいのかわからない」

悩みは解消されていない。

 

子供の食に関しては、こんなアドバイスや励ましは私もよくもらった。

「一週間で、トータルで栄養のバランスがとれていればいいよ」

「学校や幼稚園の給食で栄養を取っているんだから、神経質いなる必要はないよ」

等の前向きなメッセージである。

けれども、ついつい色々と考えてしまう。

単純に計算して、

一週間(7日)×三食=21食

そのうちの平日の昼間の5食しか栄養は保証されていないのだ。残りの16食にかかる比重はやはり大きい。

それも、夫ではなく、自分が作るなり準備するなどしてコントロールしなければならないとなると、それは大きなプレッシャーになる。日頃の、子供の小食ぶり、偏食ぶりを目の当たりにしていれば、なおのことだ。

毎食「納豆ご飯とみそ汁(具は決まって豆腐ときのこ。ねぎは申し訳程度に入っているだけ)だけは完食」する長女を見て、 

「今日の晩御飯も、納豆ご飯とみそ汁でいいかな」とは簡単に思えないのが、正直な気持ちだ。

 

 

だから、多くの母親は今日も悩むのだ。

「子供がご飯を食べない。好き嫌いが激しい」と。

 

ちなみに、既製品のお弁当や揚げ物系の総菜やミールキットのメニューを見ても、「長女が好きそう!!」と私はなかなか心躍らない。

そもそも、言葉は悪いが私は「長女が好きそうか、そうでないか」を考えるのに、「そこを判断基準に」メニューを考えるのに飽きてきているのかもしれない。いや、飽きてきているのを通り越して苦痛なのかもしれない。